【オレの話を聞け!その1】
大作「うみの苦しみ、やまの因しみ」の苦しみ
この春HPリニューアルの話を聞いたとき、最初にあのニガイ経験を思い出してしまった。数年前に当時代表だった由喜彦さんが立ち上げたHPが、サポートがなく当然のこととして更新もあまりされず、ネット上にさらされていることだ。
当時私メはある出版社でHPの管理人を目指していた。と言うより、総合出版社のとある部門でHPを立ち上げるプロジェクトの一員だったのである。パソコンが(出版社的には)ノートと鉛筆代わりからネットワークと結びついて伝送手段となり、次いで情報公開のツールへと変質しようとしていたのだ。そのため、由喜彦代表のミッションには一も二もなく飛びついた。仕事としてのプロジェクトは制約が多く、他方でそれなりの情報とか技術とか世間の動向などについては得るものが多かった。しかし、一企業のとある部門がインターネットをどう活用するかは模索状態の時代だったので、どうしても押さえ気味で過去のものとのつながり重視、稼いでいる部門への配慮などが手かせ足かせとなっていた。新しいものを新しい論理で自由に可能性を探るには、プライベートの立場のほうがやりやすかったし面白いと考えたのだった。
出版社の仕事はそのほとんどが外注で、企画ごとに周囲にフリーランスの専門家を集めてスタートする。中心に座る者はしっかりとした基本方針を持ちプロジェクトを進める。金主でもある。個々の技術に関しては素人であるが、新しいものに対しても恐れはない。プロジェクトが煮詰まってくると個々の技術に関しても多少わかってくるようになる。文字の入力・レイアウト、画像の取り込み・修正、サイト上へのアップ・管理、…などなどサイト運営の勘どころとでも言えることが…。幸い当時のプロジェクトは日の目を見た。しかし、由喜彦さんのミッションは宙に浮いたままで終わった。原因は、早すぎた。周囲のフォローがなかった。山小舎会の実力がそのレベルだった。残念だった!
一方プロジェクトは立ち上がり、その後私メはサイトの管理者を務めた。立ち上げるまでの約1年間と日常的に運用した18ヶ月とで、私メには経験が残った。多少の技術的なもの、ノウハウ、勘どころ、サイト運営のコツのようなモノが…。
古いパソコンの中味を覗いてみると、山小舎会または私用のサイトでも作ろうとしたのか、いや多分プロジェクトで身につけた事柄の確認のためだけにいじってみたのダローが、HTMLで作ったいくつかのファイルが残っている。小鳥の巣箱の作り方・ヘッドランプのLED仕様への改造・などなど。その後、出版社では似たような仕事に移りしばらくして定年を迎えた。で、今年の山小舎会HPリニューアルの話である。
最初に思ったのは、パソコンを使わない会員のことである。由喜彦さんのパイオニアワークの轍を踏まないためには何が必要だろうか? HPを広く会全体のものとすること。なおかつ早めに多くのメンバーにメリットを実感してもらう必要がある。
当時と大幅に変わってしまったパソコン環境はというと、ネット化でしょう。そして高性能化・低価格化・広く普及ということで、現在では会員のかなりのメンバーがメールアドレスを保有している。そもそもパソコンもインターネットも単なるツール・道具だから、世間を生きていくためには暮らしの充実や金儲けのために当たり前にドンドン使われている。これは自然の流れでしょう。意識することなく、便利だから、効率的だから、使うのが当たり前。
山小舎を造るために集まった、しかも四半世紀以上前にその夢に対して身銭を切った仲間が、時を経て生きながらえている。大部分は社会的にヨボヨボかヨボヨボ一歩手前である。そろそろ一人前の役柄から追われつつある。私メの体験から申してます、社会的には確実に追われつつあるのデス。今は……。お互い会うことも極端に少なくなり、ひざや足腰には長年のムチャや無鉄砲の因果を抱え込み、窓際の職場での立場やこの先の処遇、退職後の年金や暮らしに対する漠たる不安。血圧や血糖値の値に似て、自覚症状はあるのかないのか分からないが世間一般のお話ではヤバイのかも……、というヤツ。HPを再開すると話題は四半世紀前のヒマラヤや次の山行計画から、年金や出向・健康・孫になってしまうカモ。
このような会の現状認識からすると黙っていてもHPをリニューアルするだけで、ネット環境を持つ会員にはメリットが出てくる。ハズだ。由喜彦さんの時代に比べればツールと技術は手元にある、お互い交流が減った、将来には漠たる不安がある、これらすべてが好条件なのです。情報交換ができるだけでも大いなるメリットです。不安感を感じている初老のメンバーが、昔の仲間とネットを通じて会話ができる、これだけで充分なメリットです。
会のHPリニューアルにパソコンを使わないメンバーのことをなぜ考えるかと言えば、HPが会のモノであるからだ。私メの私物ではない。山小舎会はこれまで、広くゆるくまとめられてきていた。運営の仕方も柔らかく緩やかに運ばれてきていた。歴代の会長・理事の方々の人柄の賜物であろうが、核となる方々の智恵と労力とで細々と続いてきている。
が、HPのリニューアルとなると話は一変する。ことはデジタル時代のパソコン・ネット環境を前提としたHPの導入である。正に1か0。使うか使わないか。見るか見られないか。中間とか曖昧さなどは許されないのだ。冷徹な世界である。これまでの会の運営には見られなかった出来事なのである。
今回のリニューアルでの私メの役割は、ネットに不案内のアナログ人間とサイトとの間のつなぎ役。下田沖の黒船に向かって小船で往復した通詞または船頭役で決まり! デジタル化されたデータをサイト上にあげる部分及びそのメンテナンスには、特命理事として今年理事会に加わったヒロシさんがあたってくれるという。会長の朝男さんも自らのHPを作れるほどの手だれである。なら私メの役割は明白、サイトの形が無様であれば昔日の役割、基本に忠実であるべく苦言を申す。更新されなければ原稿を集める。ヒロシさん朝男さんにとって煙たいとか伝説上の人物となりつつある方々とは通詞・船頭となり身体を動かし脳にも汗をかく。幸い年金生活者として歩みだしたばかりの私メにとっては時間があるし、歓迎すべき役割なのである。
鈴正さんの文章から借りれば、チロチロとゆらぐ暖炉の炎。が、チロチロだって新しい薪をくべれば燃え盛るし、チロチロにはチロチロなりの燃え盛る炎とは別の役割がある。
最初のターゲットになってしまったのが鈴正さん。既に著作を何点か出版されている氏は20数年前の「不惑の夏の惑惑峠」で、ご本人はいやがっておられるが会員の間では大家としての地位を得ておられる。今回のリニューアルのきっかけもなにあろう「不惑の……」を勝手連的にデジタル化を開始していたメンバーがいたこともその一因なのである。光さん。この4月以来県の要職に就きながらシコシコとデジタル化を開始していたという。リニューアルの影の推進者の1名である。
6月には数ページできていた新しいHPをプリントアウトして鈴正さん宅に届けた。手紙では事前に概要をお伝えし「不惑の……」をサイトに掲出することのお許しと新作の執筆をお願いしていた。がしかし、氏はHPはおろかパソコンとは無縁の暮らしの方なのである。本来はPCを持参してHPをご覧いただくのが最上であるが、現状個人的にはデスクトップのみ使用でその手段はあきらめざるを得なかった。
「不惑の……」掲出はすんなり受けていただけた。しかし、私メの発案で20数年前の形式を踏んだ“タテ組み”とのこだわりが、その後の作業に大影響をおよぼしたようだ。ねっ、ヒロシさん? ただ出版社あがりは他人の役割分担の中身については知らない。知らないことになっている。知らないことにする。知っていてもノータッチ。「コレでいこうヨ。面白いから…」でお終い。そのとき「○○だからできない」「×××では予算をオーバーする」「時間が足りない」と言われればあっさり提案を引っ込める。が、………、かなりの先輩風と断定的な物言いとで、実はパソコンの世界ではタテ組みは特殊例外的なケースであることを知りながら………、レアケースであるからこそ独自性も兼ね備えるワケであるのだから、あっさりとタテ組みをヒロシさんに押し付けたのデシタ。
ヒロシさんがタテ組みで苦労したか夏休みで優雅に遊んでいたか知りませんが、この夏鈴正さん以外にも声を掛けました。雅則さんです。
定年退職後リゾートに移り住むという、TVディレクターが聞いたら1時間番組がすぐできそうな方ですが、ネットの方はRead Only Member 即ちROMと称する“見るだけ!”の方です。つまりキーボードは叩かない。メールを打つと10日くらいしてハガキが届くというユニークな方なのです。「伊東日記by雅則」は、いまだ連載は開始されていません。うまく督促を重ねてなんとか実現にこぎつけたい連載企画です。「不惑の……」は、7月下旬にめでたくネットデビューしました。
空が高くなり朝晩は涼しさを感じ始めた9月下旬、宅配便でブ厚い原稿が鈴正さんから届きました。タイトルは「うみの苦しみ、やまの因しみ」。400字×50枚の大作です。
次作をお願いした際、囲炉裏端で語るようなものなら…、とか、ワンゲルの第1代ゆえに書き残しておかなければならないことがある、とかおっしゃっていたものがついに手元に届いたのでした。読破するには時間がかかりませんでした。ポンポン、ホイホイとリズミカルに読み進み、あっという間に読了。何かいいお話をうかがったなァ、というしみじみした読後感が残ったものです。この原稿は、読み聞かせに適していると思いました。でき得れば、鈴正さんに直接お会いして囲炉裏端で伺うベキ代物です。イントネーションをそのまま直に身体で受け止めるべき作品でしょう。リズミカルな日本語、絶妙な間、体温すら感じそうな表現、などなど。
が、さてこの原稿をキーボードを叩いて1つのファイルにすることを思ったとたん、絶望! の文字が浮かぶ始末。400字×50枚=20000字。2マン字なんて、誰が入力するンだ? しかも、常用漢字以外の漢字があちらこちらにちりばめられているし、ところどころにはルビさえふってあるじゃアないか! ……、そういえばタイトルにだって「因しみ」には「くるしみ」とルビがふってある。ルビがなかったら読めますか? 常用漢字に直してしまったらよいのですか? それで鈴正さんの文章ですか? 手書きのイラストまで4点も入っていて……。
ワードなんていうソフトは、この7月に高齢者福祉会館の市民講座で初級を習ったばかり。イラストを入れるのは、そのときのテキストを頼りにやりました。ルビの入れ方は初級の講座では教えてくれませんでした。しかたなくネットで調べました。もっと大変だったのが、○○○○なんていくら変換キーを叩いても出てきやしない漢字。最終的にはIMEパットで手書き入力でした。そんな漢字が約20字。そんなこんなで、たっぷりと脳にはヒヤ汗をかかせていただきました。
大汗かいたのが、2マン字。これまで20000字なんて入力したことがありません。入力はオペレーターまかせで、私メがやるのはレイアウトと訂正と文章を短くしてA4判のレポートにまとめるだけ。幸いにもコレだけで現役時代を過ごしてきました。正直、この原稿には参りました。
なぜか2006年の10月上旬は台風の余波で、私メの年金生活のいくつかの余技のひとつである釣りの計画は延期と中止の連続でした。市民農園の方も一段落した時期でした。ポツリポツリと2マン字を小分けに入力し、ルビ付け・手書き入力をシコシコとこなしました。著者校正で鈴正さん宅を訪問することも…。宅配便・封書・ハガキのやり取りも。
こうして大作「うみの苦しみ、やまの因しみ」はサイトにアップされました。
2006年12月31日 文責 信介
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